HATAYA STUDY 第1回

HATAYA STUDY 第1回

ねるどりっぷ珈琲 機屋

第1回
わたしたちは
機屋について
もっと知らなくてはならない

1994年機屋開店。現在2021年に機屋で働くわたしたち。
勉強会の1回目は、機屋について知る。常連のお客様レベルには。この歴史を知ることが、お客様に機屋の珈琲をお勧めする裏付けになるに違いないのです。
というわけで、店主関の講義のはじまりはじまり。

まずは、うちのこのお店自体は、僕が高校3年生の頃に、この建物が建って、1985年にこの機屋というお店ができました。
で、そこまでは、ここは児童公園で、その後うちの親父が経営していた洗車場みたいなものになって、このへん、今まさにこの建物が建っているところは、洗車場のコンクリートの壁でした。

そして、85年にうちの母親が古布屋を始めるってことになったみたいです。
ぼくは、中学、高校とすごくスポーツに打ち込んでいたので、うちに帰るのも夜9時とか10時。
中学生の頃からそんな感じだったのね。ほとんどスイミングクラブとうちと学校の往復で、家ではもうほとんど寝るだけな状態でした。
高校生くらいまでは、トレーニング器具を自分で買って、腹筋背筋とか毎日100回200回セットしてやって鍛えていました。
ですので、今と体型が全く違うんですけど、ここらへんの腹筋も割れてて、体重も52、3キロだったんじゃないかな。その当時の記憶を思えば、今の自分がなんてひどい動けない体になっちゃったんだろうというギャップに苛まれていますね。

ま、そんなスポーツバカだった高校時代の85年に古布屋が始まって、それが今の菓子店、まさにこのスペースなんですけど、ここで長持ちって言ってすごい長い木の箱を真ん中に置いて、古布を販売してましたね。
その名残りになるのが、このタンス類ですね。そんなタンスに古布をしまってたんです。

喫茶店は、その古布屋さんの付属喫茶だったの。その付属喫茶が、キーコーヒーを使って定食屋を始めたの。
その定食屋が、今焙煎室として使っているところで、昔は、この食器棚あたりにガーっと開く扉があって、そこから定食とかを出してたの。
俺の記憶は曖昧ですけども、お膳に7〜8品目くらいある定食で、ご飯お代わりし放題で、600円だか700円だかでやってて、けっこう近隣の人たちきてましたね。毎日30人くらい来てたね。

たまーに、今になってからも、やってないかって来るお客さんもいます。年に1人いるかいないかですけど、久しぶりに盛岡帰ってきたんだけどって。どっかに転勤で行っちゃってた人とかね。

ということで、機屋という名前の由来は、うちの両親がつけた名前であって、機織りの機からきていると。
そして、メインが喫茶店ではなくて古布屋だったということです。
なんかね、すんごい客が来たんだよ、全国から。九州から来たとか、当時の全国渡り歩いている骨董商の人とかが、ここに来て買いためてって出て行くとか。
何かしらすごいアクションがあったし、別冊太陽だったかにも特集されたりして。
自分は学生時代で東京にいたので全然わからないんですけど、それなりに有名ではあったみたいです。
お店の真ん中に機織りがあったりして、それを母親が自分でやってたし、こんなでっかい寸胴で染物もやっていて、家に帰ってくると、染色の匂いがして、帰るのが嫌だった記憶もありますね。
趣味が高じたお店なんですけど、ちりめんとかなんとか、言葉しか覚えてないからあれだけど、化繊だとライター近づけるとすぐボワーって燃えるけど、ちりめんだと火がつかないとかなんとか、お客さんとこんなちっちゃい布で実験しているのを見たことがある。
ほんと、このくらいで5000円とかですね。ぼくは興味ないんで、何?って感じ。こんなの買ってどうするんだろう?って感じです。
和服で継ぎはぎするんだね、それからこういう小物作ったり、何かしらあるんでしょうけど、そういうのですごく需要が高くて、おそらくそういう布は、明治、大正くらいで終わりだって、昭和まで行かないって聞きましたね。なので、すごい古いものを買いに東京に行くんです。
母親の買い物に2、3回付きあったんですけど、東京の新井薬師まで行って、俺のうろ覚えかもしれないけど、いつも100万円分くらい買っているんです。すごい量買って、ダンボール3個くらいを送るんです。2、3回付き合ったことありますけど。もうよくわからない世界でね、
そういう風な感じの仕入れ方をして、それをぼくの叔母のシゲちゃんが綺麗にして売れるようにする。シゲちゃん、アイロンずーっとかけてましたね。

店でお客さんとやりとりをするんだけど、待っている間に喫茶店で飯を食べるという。
喫茶店のほうはもうかなり趣味的にやっていた店だったんで、ぼくが94年に帰ってきたときは、うちの兄貴がやってたんんだけど、もう店開けるのが11:30で、閉めるのが13時半という状態で、お客さんが帰ったらしめちゃう。もう14時くらいには電気が消えているというような喫茶店でしたね。
というのが機屋の94年までですね。
94年、ぼくは東京で、珈琲のことをいっぱい勉強していました。
94年まで、期間でいうなら1986年くらいに東京に出ているので、7年か8年くらい。
86年から94年1月まで東京で過ごして、そこの7年8年がすごく濃密で今の機屋の拠り所となっています。
かなり大きい影響をうけて、機屋の土台となっているんですよね。

<第2回に続く> 

機屋の紀元前の話も興味深いものばかり。古布屋をはじめたおかあさんも趣味の域を大きく超えて、深く突き詰めていく方のようです。店主の関の珈琲へ対するのめり込み方はおかあさん譲りなのかもしれません。
オールドコーヒーの店機屋ができるまでにも、まだまだ歴史がありそうです。

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